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世界のUFO事件簿-TOP10
-参考:禁断の都市伝説の謎

❶ 戦時中に数多く目撃された”フーファイター”  1943〜

第2次世界大戦中、特に1943年以降にアメリカ、ドイツ、日本でのパイロットたちの間で目撃された謎の物体が「フーファイター」だという。緑や赤、オレンジ色に光る物体に追跡されたり、突如消えたりして、兵士たちを困惑させたという。

  

目撃の歴史

「フー・ファイター」は大戦中、世界の各地で目撃された。それらは光の球や金属板のような形状に見え、群れを成して飛び、密着するように戦闘機などを追尾し、戦場を監視するように飛び回った。その有名な例をいくつか挙げる。

1941年インド洋

1941年9月、インド洋で夜間に目撃された物体が、後の「フー・ファイター」の報告に酷似している。イギリス軍部隊を運ぶポーランド商船「S.S.プラスキ」のデッキで、二人の水兵が「緑色に光る奇妙な球体が、満月の半分にまで大きくなりながら、われわれの前に現れた」と報告している。彼らは士官に警告したが、彼らが見ている中、球体は船とともに1時間以上動き続けた。

1942年ソロモン諸島

1942年、アメリカ海兵隊のスティーブン・J・ブリックナーが南太平洋・ソロモン諸島での怪物体目撃を報告している。空襲警報に続いて、ブリックナーと他の兵士たちは150ほどの物体が10〜12個ずつ列を為しながら飛んでいるのを見た。ブリックナーは、「震えながら」動くように見える物体群は磨いた銀色に似ており、通常の日本軍の航空機よりも若干速く感じたという。彼は目撃したときのことを、「まったく、今までの人生で見た中で、一番畏敬の念を起こさせるもので、一番おそるべきスペクタクルだった」と述べている

報道

「フー・ファイター」の報告はマスメディアでも報道された。1945年の『タイム』誌の記事は次のようであった。「もしそれがデマや目の錯覚でなければ、連合軍兵士が直面したもっとも謎めいた秘密兵器に違いない。先週、フランスに基地をおく米軍の夜間戦闘機パイロットたちは、ドイツ上空で夜間、1ヶ月以上にわたり彼らの戦闘機の後をつける『火の玉』についての奇妙な話を語った。誰もその火の玉(何であれ)が何を目的としているのかは分からない。それを心理学的な新兵器だと推測するパイロットたちは、火の玉に『フー・ファイター』と名づけた。・・・その出現の仕方に関する彼らの記述はさまざまだが、不思議なゆらめきが戦闘機のすぐそばに張り付き、速いスピードでどこまでも付いて来るように見えたという点では一致している。あるパイロットは、翼の先端から離れたところに赤い球のような形で出現するフー・ファイターの群れがぴたりとついて来て、時速360マイル(時速580km)に加速すると赤い球は空の中に急上昇していった、という。」

ロバートソン委員会報告

1952年にCIAが未確認飛行物体を調査するため発足させたロバートソン委員会はフー・ファイターの報告に触れ、その振る舞いは脅威ではないと記述した。興味深いことに、ロバートソン委員会報告は、多くのフー・ファイターは金属的で円盤の形をしているように描かれていると述べ、「もし1943年から1945年の頃に『空飛ぶ円盤』という言葉がポピュラーになっていれば、これらの物体はそう呼ばれただろう」と示唆している

 

❷ UFOブームの火付け役として名高い、”ケネス・アーノルド事件”  1947年

ケネス・アーノルドというアメリカの実業家がワシントン州の空港から自家用飛行機で移動する途中、レーニア山という山の向こうに9つの円盤のような飛行物体を発見した事件。ジェット機にしては尾翼もなく、ジグザグな飛行や突然のターンなどありえない動きをしてみせたという。彼はこの後新聞社にこの体験を報告してまたたくまに「空飛ぶ円盤」は全米に広まった。

調査と研究

アーノルドはその飛行体が2点間の距離を飛ぶ速度を計測しており、その結果は1947年当時の技術では考えられない時速1700マイルというものであった

しかしアーノルドは40キロメートルほど先に見えた物体を15メートルから20メートルの大きさと報告し、その特徴もはっきり分かったと述べているが、40キロメートル先の物の細部まで観察するのはいかに視力が良くても困難なこと(20メートル先においた1円玉の模様を判別するに等しい事)であり、熟練したパイロットであっても距離感を掴み損ねることは珍しくないことなどから、集団飛行する鳥か、観測用の気球を見間違えたのではないかという懐疑的な見方も出ている

デビッド・ジョンソンの追跡調査

1947年7月6日、日刊紙の記者であったデビッド・ジョンソンは、ケネス・アーノルド事件の追跡調査にあたった。ジョンソンはアーノルドの親友であったため、アーノルドが嘘をつくことはなく彼が見た物体は存在する、と考えていた。その結果、ジョンソン自身も追跡調査中に未確認飛行物体を目撃することになった。

ジョンソンは自家用機を操縦して、ケネス・アーノルドが円盤を目撃した地域にて飛行物体の捜索を行っていたが、そこで「きわめて不規則な動きをする黒い円型の物体」を目撃した。同時刻、観測用気球は放球されていなかったことを確かめたジョンソンはカメラを持ち飛行物体に近づいた。すると飛行物体はゆっくりと横転を始め、その動作が終わらないうちに瞬時に姿を消した。ジョンソンは物体をカメラで撮影しようと試みたが、結果的に何の姿も撮影されていなかった。

調査により、この地域付近の飛行場にいた職員数名もジョンソンと同様に、黒い円盤形の飛行物体を目撃していたことが判明した。後日、ユナイテッド航空の機長も、同じ空域で同様の物体を目撃している。アメリカ空軍のプロジェクトブルーブックProject Blue Bookがこの事件の調査にあたったが、ジョンソンが証言通りの物体を目撃したことは間違いないという結論に至った。

❸ 大都市にUFOが襲来!”ロサンゼルス空襲事件” 1942年

真珠湾攻撃から3ヶ月後、ロサンゼルス市に設置された陸軍の防空レーダーが未確認の飛行部隊を捉え、ロサンゼルスの街が恐怖に包まれたという。その物体は赤、もしくは銀色をしており、編隊を組んでジグザグに飛行して海からロサンゼルス上空に飛来、内陸部のほうへ移動したという。1400発の対空砲火にもビクともせず、むしろ砲弾の破片による死者が出た。

 

❹ アメリカ首都にもUFO襲来!”ワシントンUFO乱舞事件” 1952年

アメリカの首都ワシントン、しかもホワイトハウスや議事堂の上空に不審な光が目撃された事件。白やオレンジに光る巨大な玉がパイロットによって複数確認された。アメリカ空軍の戦闘機も出動したが、戦闘機が近づくと消え、引き返すとまた現れるといった不思議な現象が起こり、市は騒然。後日同時期にさまざまが場所で目撃されたことが明らかになった。

事件詳細経緯

1952年7月19日から27日にわたって首都ワシントンD.C.上空に68機もの「未確認飛行物体」が現れ大勢の市民の目の前で飛び回るという事件が起きたと言われているが、これは相当尾ひれのついた話であり、実際にUFOの通報があったのは、7月19-20日と、26-27日の二回、数は12個程度である。

7月19日の午後11時40分、ワシントンナショナル空港の管制塔が、不審なレーダーコンタクトを捕捉し、ホワイトハウスや議事堂の上空にあると思われたので、近くのアンドリューズ空軍基地に通報し、不審なレーダーコンタクトが確認された。また白、オレンジ、尾の有無など細部は異なるものの、空中で異様な動きをする光が、管制官や駐機中の旅客機のパイロットらから6個程度が目撃された。

アメリカ空軍のロッキードF-94Bが飛来する直前に、件のレーダーコンタクトは一斉に消失したが、戦闘機が燃料切れで引き返すとまた現れたため、あたかも無線を傍受して戦闘機を避けたかのように見えたという。翌20日の午前5時30分、レーダーコンタクトは消失したが、新聞で大きく報道され、全米で話題となった。

そして一週間後の7月26日の夜8時頃、ワシントン上空を飛行中の旅客機の複数の乗員が、上下左右に不規則に動き、速度を変化させたり静止したりする「異様な光体」を目撃し、空港のレーダーにもそれらしい反応が現れた。計算上、時速1万キロを超える速度も観察されたが、ソニックブームなどは報告されておらず、さすがにこれは、レーダーが一回転する間に明滅した別々のコンタクトを同一のものと誤認した結果であると考えられる。空軍が調査のために2機のF-94戦闘機を発進させたが、機上レーダーにはそれらしいブリップがあったものの、フライトリーダーは何も視認することが出来なかった。

ウイングマンのウイリアム・パターソン中尉は、4つの光体を目撃し、1000フィート以下の低空を飛行中、機体を取り巻くように飛んでいたと述べた。光体は様々な場所に現れ、いずれも戦闘機が到着するとすぐに消滅し、空軍と光体のイタチごっこが続くこととなった(ただし、この「近づくと消える」はまさに蜃気楼である)。深夜になると、光体はアンドリュース無線塔の上空に出現し、「オレンジ色に輝く巨大な球体」を通信員たちが目撃した。

またバージニア州ニューポートニュースの人々は「互い違いに色を発して回転し、まぶしく光る物体」の目撃を報告したが、夜明けとともにレーダーコンタクトも消えた。この日の事件も大きく報道され、全米で話題になった。

記者会見と公式見解

ペンタゴンにはこの件で問い合わせが殺到し回線はパンク状態になった。ただし、新聞記事を読んでの連絡も多く、実際にUFOを見て通報した人が多くいたわけではない。空軍は「市民を落ち着かせるために何らかの方策をとる必要があった」。空軍は記者会見を行い、UFOは「逆転層による気象現象」(気温逆転説)であったと説明し、上位(浮上)蜃気楼と呼ばれる現象で、逆転層が地面の光を反射しながら風に乗って移動していたという説が考えられる。また、こうした逆転層はレーダーにも影響し、気象データも逆転層が発生する条件がそろっていたとした。

実際、出動したパイロットの証言からも「UFO」はハイウェイの上空のかなり低空にあらわれており、風向きに沿って移動していることがわかっている。

公式見解への批判

この気温逆転説を用いた公式見解には批判もある。

まず、レーダーに実体と区別がつかない程に鮮明な反射映像を出せる逆転層が発生したとは考えられないとする意見が挙げられる。

そもそもそれほどの現象が普通に起こりうるならば世界各地で同種の誤認事件による航空管制上の混乱が多発していたはずであり、実際に当時、レーダーを注視していた調査員は「実体のある目標と、気温逆転によるレーダー反射は簡単に区別できる」(気温逆転程度では実体と見まごう程鮮明な映像は出ない)と述べている。これに対しては、50年代のレーダーの性能も運用術もこうした誤認を防止できるほどの水準にあったのかどうかを具体的に検証した資料は未だ公式には提示されていないという意見もあるが、その程度では実際のベテラン運用者の経験からくる判断を否定する根拠とはなりえない(なお、旧式レーダーの性能に疑問を呈している民間の電子工学技術者の意見をUFO信者は無視していると言う考えも可能である一方、その民間の電子工学者とは比べ物にならない高水準の技術を扱う軍の運用能力をUFO否定論者の方は何故否定的に評価するのか?という考えもでき、一概に断定しかねる部分がある。)

ましてや彼らからの要請で何度もスクランブルが出されたという事実は明白な確信があっての判断が出た証拠と言える。(当時のアメリカのレーダーは電子部品の信頼性の高さもあって世界最高水準にあり、その原型機材が活用された10年前の大戦時においても飛来する砲弾を捕捉できる精度があった。)

なお、現場を預かる責任者として、又機材運営の担当としてUFO目撃の際にレーダー管制室にいたデューイ・フォーネット少佐と海軍のレーダー専門家は、彼らなりの経験と自信から気温逆転説に賛成しなかった(上層部からの圧力に抗してそうした態度をとったことを考えると、事実上の否定といって良い)ため、事件の沈静化を意図する政府筋から忌避され、関係者でありながら記者会見には招かれなかった。

こうした真相の隠蔽を伺わせる軍の態度から憶測すれば、今後の機密解除次第で新たな事実関係が判明すると見ることもできる。

また事件の最中に民間航空機のパイロットが「物体」を目撃したことを空軍は認めたが、その事実についての説明はなかった。民間研究者であるジェームズ・マクドナルドは、調査結果により気温逆転説は支持できないと述べた。

また、1952年の夏には逆転層は毎日発生しており、ワシントン事件当日の逆転は、他の日と比較しても大きいものではなかったというデータ[3]があり、その意味では当日のUFO騒動ではさほど鮮明な映像がレーダースコープに出ていなかったことが伺える。ただ、「多くの目撃がある」とされながらも、信頼できる写真が無い点が不自然であり、このことは、この時の「UFO」が実際はさほど明るくはなく、当時のフィルムやカメラでは撮影が困難なものだったことを暗示している。

なお、当時はUFOと宇宙人来襲SFの大ブームであり、またソ連への偏執的な恐怖感も高まっていた社会的背景も指摘されており、単に「想像力の働かせすぎ」という指摘も可能だが、ソ連に対する恐怖感は主として冷戦に備えた軍事費への支出を納得させるための方便として国民に向けられた宣伝の結果であり、事件の当事者である米軍内部には大戦による被害で労働人口が大幅に低下した上にインフラ整備を戦時捕虜達の強制労働に頼るほど国内が荒廃しきっていた当時のソ連をそこまで過剰に恐れる心理が働いていたは思えないとの指摘も出来る。

世界同時多発目撃

その後、アメリカの公式UFO調査(プロジェクト・ブルーブック)の資料により、この時期のUFOの目撃場所はワシントンD.C.に限らず、世界中に渡っていたことが判明したとの主張がある。

ワシントン事件が起こる1時間前には、沖縄の米軍基地にて4人の空軍関係者が、「球状」で「急激に飛行コースを変える」未確認飛行物体を目撃した。ワシントン事件が起こった数十分後には、モンタナ州のグレートウォールズの空軍基地で、5機の飛行物体が超高速で飛行したという報告がされた。

その数分後、次はニューメキシコ州のホロマン空軍基地で、高速で動く3機の発光体が複数の技術者や将校たちにより目撃された(この基地では近くで観測用気球も打ち上げられていたが、後の調査で気球による誤認ではないことが判明した)。物体は金属的な質感をしており、超高速で急激に進路を変えたという。レーダーに捕捉された時点では高度1万mに滞空しているという結果が出た。気象条件は理想的で、気温逆転現象もここでは起きていなかった。

それから数時間の後に、ニューヨークから出発したパンアメリカン航空92便のパイロットたちが円盤形の飛行物体を目撃していた。その他の例では、モロッコ、カサブランカ、マラケシュ、アルジェリアなどでもUFOが目撃されていた。証言内容は概ね共通のものであった。事件当時、これらのUFO目撃事件とワシントン事件を関連させて調査した者は皆無であった

事件写真

「UFO」らしき光点を背景にした議事堂の写真がよく引き合いに出されるが、写真の議事堂には1952年以降の改修工事の跡があるため、光の点の正体が何であっても本件とは関係ない。また光点は単なるレンズフレアと思われ、トリミング前の写真も既に判明している。つまり、この事件の「UFO」を捉えた信用できる写真は全く存在しない。

 

❺複数の目撃者による証言”エクセター事件” 1965年

アメリカ、ニューハンプシャー州の近くであるエクセターで複数の人間が赤い閃光灯のある巨大な飛行物体を目撃した事件。「高さ100フィートで空中静止していた」「赤い灯が高速で右から左、左から右へ閃光を繰り返したという。二人の警察官もこれを目撃している。

事件詳細

1965年に、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州のエクセターの南約5kmで起きたUFO目撃である。地元のティーンエージャーと2人の警察官の証言が有名である。

マスカレロ(18歳)はエクセターの両親の家までヒッチハイクをしていた。彼は歩いているうちに、近くの森で5つの赤い閃光灯が光っているのに気づいた。光はまもなく彼の方へ移動、マスカレロは恐ろしくなり溝に跳び込んだ。

彼は道路へ走り込み、むりやり車を停め、エクセター警察署に乗せてもらった。警察官に事情を説明した後、一緒に目撃地点に戻り調査を開始した。

2人は森から物体が飛び立つのを見た。物体は前後に揺れながら彼らのほうへゆっくり移動した。警察官は「赤い閃光灯のある、巨大な黒っぽい、納屋なみの大きさの物体」と形容した。もう1人警察官が駆けつけ、3人で奇妙な物体を見守った。物体は最後には森の上を飛び去り、姿を消した。

2011年に、元空軍少佐らが事象の考えられる説明を提示した。パイロットとして元空軍少佐は、1965年にエクセターの近くの空軍基地で給油機によって飛行中給油されたことがあった。その時、5つの赤色灯をフラッシュさせたという。

 

❻ 増えてゆく飛行物体の恐怖”フェニックスライト事件” 1997年

アメリカ、アリゾナ州のフェニックス上空で発光する奇妙な飛行物体が目撃された事件。最初に確認された時は5つだったが、だんだんと移動しながら数を増やしていったことが数千人以上によって目撃された。不思議なことに軍のレーダーには映らなかったという。

詳細

フェニックスの光が現れたのは、1997年3月13日の夜間の事であった。目撃された場所などによって正確な時間が異なるが、それは18:55から23:00の間であったと言われている。推測による目撃者は、数千人から1万人に上ると言われている。目撃情報はメキシコのソノラ州周辺からアメリカのアリゾナ州周辺の300マイルにまで及ぶが、多くの目撃情報は人口密集地のアリゾナ州、フェニックスであった。

目撃情報には2つのパターンがある。1つは、上空にホバリングした状態で現れ、消えていった7つのV字型の物体と、もうひとつは上空を航空機のように通過していったとするやはり7つのV字型の物体である。いずれも、目撃地点から飛行物体までの距離によって、上空をホバリング飛行しているのと、通過飛行しているのとに見え方が変わったと解釈されている。

目撃

-最初の目撃

UFO説による想像図

確認されている最初の目撃情報は、アメリカのネバダ州、ヘンダーソンに住む男性のものである。彼は当日の18:55(19:55MST)頃に、V字型の6つのライトが上空を通過していったと語っている。ライト1つのサイズは、おおよそボーイング747程度であったとしている。伝えられるところによると、ライトは北西から南東に向かって横断していったという。

プレスコットとプレスコット・バレーでの目撃

伝えられるところによれば、ライトはアリゾナ州のプレスコットやプレスコット・バレーでも見られた。

フェニックスでの目撃

ライトはフェニックスを通過していった。フェニックス在住のミッチ・スタンリー(アマチュア天文学者)は、32mm望遠鏡でライトを観察した。彼は観察時、それが航空機だと思っていた。

その後フェニックスにおいて、次々に目撃情報が出た。最もフェニックスでの目撃情報で注目する点は、ライトが1つずつ現れ、1つずつ消えていったという事である。フェニックスでの多くの目撃情報が、7つのライトがV字型に飛行しているものであった。フェニックスでは多くの写真やビデオが撮影された。それらのビデオの多くが、ライトがフェニックス近郊の山岳の影になって見えなくなるのを撮影している。

ライトは州間高速道路10号線に沿って南東に進んでいった。南下していくオレンジ色のライトを、多くの高速道路のドライバーが目撃している。ライトはさらに南方でも目撃され、目撃情報は23:00MSTまで続いた。

アメリカ空軍による説明

軍用照明弾(写真は榴弾砲 から打ち上げられた物)

事件後アメリカ空軍は、「事件は低空演習の誤認であった」と発表した。説明によると、事件日にアメリカ空軍所属のA-10数機が、訓練のため、ルーク空軍基地を中心として地域で照明弾を投下していたという。ライトは、その照明弾の明かりであったと解説した。

軍の説明に対する反応

この軍の発表は多くの目撃情報やビデオの映像、写真と無理なく合致するものであり、当初から一定の軍事知識の有する人なら誰もが予想していた通りのものであった。また、UFO研究家でその存在の信奉者でもある、画像分析の専門家として知られるブルース・マカビーですら照明弾とする見解を発表した。

しかし、現在でも照明弾であることを疑う人々が存在する。ただし、そうした人達の中には、照明弾とフレアの違いを知らずに混同しているケースも少なくない。照明弾は落下傘で比較的長時間滞空し続けるが、ミサイル欺瞞用のフレアはそうではない。目撃された光の特徴が長時間の滞空と発光が不可能なフレアと一致しない事が理由としてしばしば挙げられる。これは英語では前者も”flare”と呼び、呼称上の区別がなく、軍が比較的身近な存在の米国であっても両者の違いが一般的には知られていないためである。

一方で、数多くのUFO画像・映像を分析してきたビデオエンジニアのジム・ディレトッソは、実際にA-10から照明弾が投下される映像とフェニックスの光の映像をコンピューターの映像解析ソフトを用いて比較した上で、「フェニックスの光は照明弾とは異なるものである」と断言している。その根拠として、双方の映像にヒストグラムによる色相解析をかけたところ、照明弾では色調と明度が不安定に変動するのに対し、フェニックスの光はまるで電球のように長時間に渡って安定を保っていることがあげられている。

❼ 史上最も有名なUFO回収事件”ロズウェル事件” 1947年

アメリカ、ニューメキシコ州のロズウェルから約112キロ離れた地点に墜落した物体をめぐる事件。当時「空飛ぶ円盤」と発表されたがすぐに「気象観測のための気球」と訂正。しかしのその31年後の取材で「異星人の乗り物」だったという元兵士の話が出てきたり、「アメリカは極秘で異星人の技術解明を進めており、技術提供の協定を結んでいる」という書類まで見つかっている。

詳細はこちらまで
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロズウェル事件

この出来事はすぐに忘れさられたが、30年以上後に、突如注目を浴びることになった。

1978年、UFO研究家のスタントン・T・フリードマンは、1947年の事件発生当時、問題の残骸の回収に関わったジェシー・マーセル少佐Jesse Marcelにインタビューを行い、「軍は異星人の乗り物を極秘裏に回収した」と発表した。フリードマンの主張はテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられることとなった[2]

1980年2月、タブロイド紙の「ナショナル・エンクワイアラー」紙(The National Enquirer) がマーセルのインタビュー記事を掲載し、ロズウェル事件は全世界の注目を集めることとなった。

それ以降、この事件は世界中で様々な憶測や噂、研究、調査などの対象となっており、それは現在になってもなお進行中である。

アメリカ政府の公式見解

アメリカ政府の公式見解は1997年6月24日にアメリカ空軍総司令部が提出した報告書としてまとめられており、それによると、1947年に回収された物は極秘の調査気球であり、また「宇宙人の死体の回収と解剖」とは、1956年6月26日に発生したKC97航空機の墜落事故との記憶混同であるとされる。

ニュース報告

7月8日火曜日の早い時間、ロズウェル陸軍飛行場の報道官ウォルター・G・ハウト中尉(Lt. Walter G. Haut)はプレスリリースを発表しそれはすぐに多数のニュース特約社によって取り上げられた[9]:

「空飛ぶ円盤に関して多くの噂があるが、昨日それが現実のものとなった。ロズウェル陸軍飛行場、第8航空軍、第509爆撃航空群の情報局が地元の牧場労働者の一人とチャベス郡の保安官事務所の協力を通して幸運にも円盤を所有することができたのである。先週のいつかに飛行物体がロズウェル付近の牧場に着地した。電話設備がなかったので、牧場労働者はその円盤をしまっておき、彼が保安官事務所にコンタクトが取れると、こんどは保安官が第509爆撃航空群情報局のジェシー・A・マーセル少佐に知らせた。すぐさま行動が取られ円盤は牧場経営者の家から運び出された。それはロズウェル陸軍飛行場で詳しく調べられ後にマーセル少佐によってより上位の司令部へと貸し出された」

第509爆撃航空群の指揮官、ウィリアム・H・ブランチャード大佐(Colonel en:William H. Blanchard)は、テキサス州フォートワースにある第8航空軍のロジャー・M・レイミー准将General Roger M. Rameyにコンタクトを取り、レイミーは物体をフォートワース陸軍飛行場へと航空輸送するよう命令した。この基地で、アーヴィング・ニュートン准尉Warrant Officer Irving Newtonは、物体を気象観測用気球およびその「凧」であると同定するという、レイミーの予備的意見を承認した[5]。「凧」は地上から気球を追跡するのに使われたレーダー反射板へのニックネームである。物体が「気象観測用気球」であったと記述する、もう一つのニュースリリースが、こんどはフォートワース基地から発表された。

フォートワースでは、物体に由来すると言われる残骸の数枚のニュース写真がその日に撮られた。残骸は凧をつけた気象観測用気球の一般的記述と一致した。レイミー、トマス・J・デュボーズ大佐Col. Thomas J. Dubose、マーセルの三人は物体とともにポーズを取っていた。ブレイゼルは、その日のロズウェル・デイリー・レコード紙とAP通信によるインタビューの中で、「気象観測用気球」であるとする軍の断定をはねつけた。以前に牧場で彼が回収していた数個の他の気象観測用気球の例を出して、彼はこう言った。「私は自分が見つけたものはいかなる気象観測用気球でもないと確信している」[7]。この事件はすぐに忘れ去られた。

新たな目撃証言の登場

1978年以降、数年の間に「11の地点で、異星人の乗り物と異星人を回収することを目的とした大きな軍事作戦があった」など、新たな証言が現れた

1989年には、元葬儀屋のグレン・デニス(en:Glenn Dennis)が、「ロズウェル基地でロズウェル異星人死体解剖が行われていた」との証言を行った(App.C)。

これらの証言を受け、ロズウェルのあるニューメキシコ州選出の下院議員スティーヴン・シフは空軍に対する会計監査を要求。これを受けて 会計検査院は調査を開始し、空軍長官室に内部調査を行うよう指示した。その結果は『ロズウェル・リポート』と題された二つの報告にまとめられた。

最初の報告書は1995年に発表された。それによると、「1947年に回収された物体はモーグル計画(Project Mogul)と呼ばれる秘密の政府計画に由来する残骸である可能性が高い」とのことであった。

第二の報告書は1997年に発表された。それによると、「回収された異星人の死体についての報告は、1956年6月26日に発生したKC97航空機の墜落事故の記憶や、1950年代に行われたハイダイヴ計画(Project High Dive)などの擬人ダミー回収の記憶が無意識のうちに変質したものであり、またそれらをもとにしてUFOマニアが創作した捏造であろう」とのことであった。最初の事件と航空機墜落事故との日付の違いについては、心理学的に説明可能な現象であるとされた。

異星人の話の出現

ロズウェル事件墜落現場のCGによる復元

新しい目撃談とロズウェルUFOについての本

1978年、元核物理学者で作家のスタントン・T・フリードマンはジェシー・マーセルにインタビューした。マーセルは、回収された場所からフォートワースまでロズウェルの残骸に同行したと知られる唯一の人物である。それからほぼ15年のあいだ、彼や他の関係者はロズウェル事件についての話をもたらし、これらの話はロズウェルを忘れられた事件から、たぶん全ての時代の中で最も有名なUFO事例へと押し上げることとなった

1990年代初頭までに、フリードマン、ウィリアム・ムーア、カール・フロック、ケヴィン・ランドルとドン・シュミットのチーム、といったUFO研究家たちは1947年のロズウェルでの出来事に関係を持つ、あるいは持つと主張する、数百人の人々にインタビューした。さらに、何百もの文書が情報公開法に基づく請求を通して得られた。これらの文書の一部は、疑わしい「マジェスティック12」文書のように一見内部の者によってリークされたかのように装われた

彼らの結論は、少なくとも一機の異星人の乗り物がロズウェル近辺に墜落したこと、異星人が回収されその一部はまだ生存していた可能性もあること、事件についてのあらゆる知識に対する大規模な隠蔽が行われたこと、であった。

多数の本、記事、テレビ特集、さらにはテレビ映画までもが1947年の事件に名声と悪評をもたらした。1990年中ごろまでに、1997年のCNN/Time のものをはじめとする複数の世論調査で、異星人が地球を訪れたこと、特にロズウェルに異星人が着陸し、政府がその事実を隠蔽したことを信じる者が大多数だったほどである

1947年に報告された話と大きく食い違う一つの新しい物語が出現した。1980年にロズウェルについての最初の本が出版されてからの数年のあいだに、多くの新しい目撃者と報告が出現するとともに、この物語は進化していった。これらの話のある程度は事件が有名になったことによって出てきたという面もあるだろう。懐疑論者はこれらの話のもっともらしさに対して多くの反論を出したが、事件についての最初の空軍報告が発表され、異星人が存在することへの強い反論が広く知らしめられたのは1994年になってのことであった。

これらの著者たちが本当の出来事の推移であると思っていたことはそれぞれ違い、多数のシナリオが彼らの手によって出現した。それは、どの目撃談を採用しどれを無視するか、文書の証拠が示しているものを何とするか、によって違うものとなった。これは特に異星人の乗り物の墜落地点および回収地点として主張されたさまざまな場所に関して本当だった。さまざまな著者たちがこれらの出来事に対して別々の目撃者と別々の位置を記したのである

❽”ソコロUFO事件 1964年

アメリカのニューメキシコ州郊外ソコロで起きた、UFOおよびその搭乗員も目撃された事件。保安官が卵型の輝く飛行物体を発見。物体から2本の脚が出てきて地面に接触、さらに窓もドアもなかったという。その横には白い作業服の男が二人おり、保安官に気づくとその物体に乗り込んで聞いたこともないような轟音をあげてゆっくりと上空に飛び立っていったという。UFO搭乗者の目撃を伴う事件であり「第3種接近遭遇例」と識別された。

❾宇宙人に捕まって検査された”ヒル夫妻誘拐事件” 1961年

1961年9月19日から20日にかけ、ヒル夫妻が宇宙人に誘拐されたという。アメリカのニューハンプシャー州を車で走行中の二人は上空に光る物体を発見、下車して近づくと物体の中に人影があり、夫妻を捕獲しようとする挙動をみせたため逃走するが、その後の記憶は不鮮明に。妻が繰り返し「宇宙人に捕まってUFOでさまざまな検査を受ける悪夢」を見ており、それが現実のことだったのかは定かではない。

➓ 複数の軍人によって目撃された”レンデルシャムの森事件” 1980年

イギリスのサフォーク州の森で、警備兵がUFOに遭遇した事件。レンデルシャムの森に入った3人の警備兵が金属のような光沢で、赤と青の光を発する直系3メートルの三角形の飛行物体を発見。翌日にも森で不審な光が観測され、空に星のような物体が現れたという。一連の出来事は複数人の軍人によって目撃され、報告書にまとめられたという。(ホルト文書)

■イギリス史上最大のUFO事件「レンデルシャムの森事件」

事件発生から30年が経とうとするも、未だ解明の糸口さえ見つからないイギリス史上最大のUFO事件である「レンデルシャムの森事件」。その新たな証言がリークされた。

1980年12月27日早朝、イギリス・サフォーク州にあるウッドストック空軍基地(当時は米空軍が駐留)の警備当番兵2人が、基地に隣接するレンデルシャムの森の中に“UFO”が着陸する光景を目撃した。

当直の警備指揮官は、ジム・ぺンストン軍曹とバト・ステファン軍曹、ジョン・バロウズ二等空兵の3人に不審な“UFO”の捜査任務を命じ、このレンデルシャムの森の中へと派遣した。そしてこの3人は“UFO”を目の当たりにしたといわれている。その後も同地では、12月30日にかけて白い光や青い光を放つ三角形の“UFO”が何度か目撃されたことが報告されている。

目撃者の1人でもある当時の基地副指令チャールズ・ホルト中佐は、この一件についての情報収集を任され、後に公式報告書を作成して空軍に提出している。

UFOが着陸したと思しき現場の放射能の値が若干高かったことや、付近の木々がダメージを受けた痕跡などを除き、写真などの具体的な物証はなく、解明の手がかりは目撃者の証言のみだった。しかし、矛盾する証言や偽証を疑わせる発言もあり、また、そもそも軍や当局さえ積極的に調査する意思がないように思えるふしもあり、このホルト中佐のレポートの提出をもって「レンデルシャムの森事件」の調査は事実上終了している。

軍にとって重大な脅威となり得る重大インシデントのはずが、なぜこうも早く調査は打ち切られてしまったのか――? レポートを書いたホルト氏自身、この「レンデルシャムの森事件」をずっと気にかけていた。

そして月日は流れて2010年、同事件に大いに興味を持ったイギリス警察の元刑事ゲーリー・ヘーゼルタイン氏が、すでに軍を退役しているホルト氏を招いてレンデルシャムの森を訪れ、本格的な現場検証を行い、長時間に及ぶビデオを撮影している。

この時撮影されたビデオは編集され、ドキュメンタリーとして公開されたのだが、実は未公開のビデオクリップがあったのだ。では、いったいどんな内容だったのか?

■通信途絶の“失われた3時間”はUFOに拉致されたため!?

問題の未公開映像は、ヘーゼルタイン氏によってイギリスの大衆紙「The Sun」に持ち込まれ、同紙のオンライン版で先日公開されたばかりである。しかし、なぜ今になって未公開の映像があることに気づいたのか? それは、本編への挿入を想定していない“オフショット”映像だったことが理由だという。

レンデルシャムの森を歩いている最中、同行していたヘーゼルタイン氏の妻が何気なくカメラを回し、夫たちを撮影した18分間の映像が残されていたのだ。そして、問題の映像の中に、重大な意味が込められたホルト氏の発言が収められていたのである。会話の内容は下記の通りだ。

ホルト氏:彼(バロウズ)はおそらく誘拐された。誰か知っているだろうか、私は話を大げさにしたいわけではないが。

ヘーゼルタイン氏:誰も知らないと思いますが……。

ホルト氏:失われた時間があったんだ。(捜索時に)彼らとの無線が途切れたんだ。チャンドラー軍曹が誰も無線に出せなかったのはなぜか?

チャンドラー軍曹とは、3人との無線を中継していた人物のようで、どうやら森へ入っていった3人とチャンドラー軍曹との間の通信は、3時間にもわたり途絶していたようなのだ。この失われた3時間の間、ホルト氏は彼ら(あるいはバロウズ1人)が“UFO”に拉致・誘拐されていた可能性を指摘しているのである。

森に入った3人の証言は謎が多く、食い違っていることもあり整合性が伴わず、ホルト氏もどういうわけか報告書には通信途絶があったことを記していないようだ。そして、証言では3人のうちの1人は気を失ったという非公式記録も残されているという。はたして、この“失われた3時間”でUFOによるアブダクションが行なわれたのか? 場合によっては、高度な技術によって兵士たちのアブダクションの記憶が消去されているのかもしれない。

UFO研究家のニック・ポープ氏は、今回の新証言に関して「これは、冷戦時代の真っ只中に、NATO同盟の中で最もセンシティブな軍事基地の副基地司令官を務めた者による爆弾発言である」と評して影響力の大きさを指摘している。ホルト氏には、ほかにもまだ言い残していることがあるのだろうか。今後も“爆弾発言”が続くかもしれず、チェックが怠れない。