ノストラダムスの大予言は外れたのか?

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ノストトラダムスの大予言は外れたのか?

現在はほとんど忘れ去られている予言、というか警告の書ではありますが、皆さんは「ノストラダムスの大予言」という書籍をご存知でしょうか?このおどろおどろしい書籍の表紙を思い出す方もいらっしゃるかもしれません。

フランスの16世紀の医師・占星術師でありながら「諸世紀」という予言書を著したミシェルド・ノストラダムスを1973年に日本で出版した五島勉氏の大ベストセラー書になります。

1999年7の月にアンゴルモアの大王が現れ、地球の滅亡が起きる

そのようなセンセーショナルな内容であったため、社会問題となるほどの一大ブームになりました。

その後次々と続編、類書が生まれ、世紀末予言は多くの方が注目するところとなった。

 

この本では、ノストラダムスが未来を先取りした医術でペストを鎮めたことや、その予知能力を買われてフランス国王アンリ2世の顧問となったこと、その顧問を辞めたあとに予言詩集『諸世紀』を著したことがまず紹介されている。

そして、彼の『諸世紀』では、パスツール、フランコ、ヒトラーやカギ十字といった歴史上の有名人や団体、あるいはクレジット、カーマニアなどといった社会現象に関する用語が、固有名詞入りで的確に予言されていたことが例証されている。

その上で、「1999年7の月に恐怖の大王が来るだろう」という予言について、ノストラダムスがアンリ2世に対して1999年に人類が滅びると語ったとする史料などを引き合いに出し、人類滅亡を予言したものであると解釈した。そして、環境問題、核兵器、彗星など、「恐怖の大王」の候補とされている各説について検証を行っている。また、その前後には、関連するという詩の解釈を行い、1999年までに襲い来る極度の大気汚染・水質汚濁(五島は「超汚染」と呼んでいる)や、大震災による陰惨な未来像を畳み掛けるように展開している。さらに、1999年以降に生き残った僅かな人類を待ち受ける悲惨な運命についても言及している。

最後に数ページを使ってい希望を模索する。そこではまず、1999年の人類滅亡が先延ばしに出来る可能性や、局所的な破壊にとどまり人類が絶滅はしない可能性への希望を表明している。その上で、ノストラダムスの予言の的中は不可避としつつも、哲学思想として捉えたならば、西洋キリスト教文明に対置しうる東洋思想の実践などによって救われる可能性もあるかもしれないと説いている。

内容の問題点

本来「百詩篇集」などと訳されるべき『予言集』の主要部分の名称が、英訳からの転訳によって生じた誤訳である『諸世紀』となっていたり(ここでは『予言集』そのものの換称として用いられている)、架空の研究家の名前や創作と思われる詩や史料が登場していたり、いたずらに「1999年7の月」の詩を誇張したり、ノストラダムスの生涯に関する記述などにもかなりフィクションが含まれているなど、実際にはノストラダムスの予言解釈本というよりも、五島勉氏の小説という色合いが強いと指摘されている

また『大予言』第一作は、当時の「終末ブーム」への便乗という執筆動機は明らかであるものの、地球規模の環境汚染や全面核戦争など、真摯な近未来の危機への警告書という体裁を一応はもっていた。反面、予言が間違いなく当たるものだということも強調されるという矛盾した姿勢が存在していた。これについては、外れたときの弁明の余地を残したのではないかという指摘もある

ではノストラダムスの予言は外れたのか?

ノストラダムスの『百詩篇』第10巻72番(以下、「X‐72」と表記)では、次のように書かれている――。もっとも有名な部分だろう。

 

1999の年、7の月、

 

空から恐怖の大王が降ってくる。

 

アンゴルモアの大王を復活させるために、

 

その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配に乗り出すだろう。

 

そしてここに登場する「恐怖の大王」を大量殺戮兵器による飽和絨毯攻撃、もしくは上空に溜りに溜った超汚染物質の降下と解釈し、これが1999年に人々の頭上に「降ってくる」ことで、人類は滅亡すると説いたのだ。当然ながら、予言の年である1999年からすでに20年を経た令和の時代を生きるわれわれは、1999年に人類は滅亡などしなかったということを知っている。

 

まずはひと安心である。だが、これははたして、ノストラダムスの予言が外れたということなのだろうか?

Massive Volcano Eruption. A large volcano erupting hot lava and gases into the atmosphere. 3D Illustration.

 

月刊ムーの編集部では下記のような擁護論もある。

彼の「予言詩」には通常、内容の時期を示す具体的な年代はまったく含まれておらず、このことが彼の予言をさらに難解なものにしている(ノストラダムス自身、それを意図的に行っていると書簡に記している)。だが一方で、「アンリ2世への書簡」(日付は1558年6月27日)には、次のような一節があるのだ。

 

「この年の初めには、かつてアフリカで成された以上に大規模なキリスト教会に対する迫害があり、1792年まで続きますが、そのとき、時代を一新するようなことが起こるはずです」

 

あまりにもさらりと書かれているので、この一文が書かれたのが1558年だという事実をうっかり失念しそうになる。

 

だが、ノストラダムスはこの散文で、「大規模なキリスト教会に対する迫害」「時代を一新するようなこと」が1792年まで続く、とあっさり洩らしているのである。

 

これが「フランス革命」の正確な予言でなくて何であろう(1792年は王政廃止とフランス第一共和政樹立が宣言された年)。

 

ノストラダムスは自らの祖国を襲うこの災厄(彼にとって「革命」は災厄にほかならなかった)にことさら懸念と関心を抱き、多くの「予言詩」をそれに充て、細部に至るまで的中させている。彼の予知能力の正確さは、これひとつだけで十分証明できていよう。

 

そんなことから、かの分析心理学の泰斗であるカール・グスタフ・ユングはノストラダムスを大いに評価し、彼を黙示録のヨハネの衣鉢を継いでこの世に現れるべくして現れた本物の予言者と定義している。

 

「X‐72」が外れた(ように見える)という一事をもって、あたかもノストラダムスを「偽予言者」であるかのごとく断罪するのはあまりにも軽率にすぎる。

 

1999年7の月から20年目を迎えた今こそ、われわれは再度、ノストラダムスに注目すべきなのだ。

予言のプロセスは予言者によって違いはあるだろうが、ノストラダムス氏の予言には年代や月が記載されているものと、それを超えた連続して起きる可能性のあるの地球の天変地異や事件、戦争などのどちらもあることから、今後も引き続き研究する必要はあるだろう。

それと同時に、予言というものが一体何をベースによって作られているかを考える必要はあるだろう。

キリスト教やユダヤ教の預言は人間の身勝手な支配欲や、権勢欲、そして神をも恐れぬ冒涜が過ぎた時に起きるとされている。

自由を謳歌し、人間の欲望の限りを尽くし、自らが神を超えたと思った時、

バベルの塔を建てようとした古代バビロニアの人々のように

物質のみを信じ、商業のみで発展を遂げようとした古代ローマ時代のカルタゴが滅亡したように

何らかの自浄作用が起きるのが普通のことだと思っていた方が良いと思います。

神なのだから裁き、殺すわけがない、というのは日本的な発想です。

天変地異を預言だけで読み解くのではなく、人類全体の共通の運命、共業(ぐうごう)であるという発想も黙示録を読み解くとある得るのではないでしょうか?